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My Sensibility - UFOと天皇

UFOと天皇

カテゴリ : 
My Sensibility
執筆 : 
Ya(^z^)oo 2008-8-17 23:19
黄金のおっちゃんのブログに、
YouTubeで矢追純一のUFOスペシャルが見れますとリンクが貼ってありました。

http://goldentamatama.blog84.fc2.com/

エージェントさんから言わせると、この回だけは秀逸だということなので、
数十年ぶりくらいにUFO番組を真剣に見てしまいました。

http://jp.youtube.com/watch?v=PD2S3J401lI

思い起こせば小中学生のころ、
矢追純一のUFOスペシャル番組を夢中になって見たものです。

久しぶりにUFOのことを思い出したら、
過去の出来事が走馬灯のように思い浮かんできましたので、
文章化できたものから書いてゆきたいと思います。

こう暑い日が続きますと、
頭がいつもにも増してボケてしまい、
あまりたいした文章も書けませんので、
この際、己を晒してナンボの世界を展開してみようと思います。

立派でもないのに、背伸びしたりしたことを書くと、
どうしてもうそ臭くなりますので、
ありのまま書いてゆこうと思います。

かなりタブーに触れたことも書くと思いますし、
トンデモ的なことも書くと思いますが、
嘘偽りのない、自分が見聞きし、体験してきたことを書いてゆきます。
若干の誇張やボヤカシはご了承ください。

思いつきであちこち飛んだり、
長文になるかもしれませんので、
何度かに分けて書くかもしれません。

まず、ぼくが育った環境からお話させていただきます。

生まれたのは母親が縁のある神戸市灘区なのですが、
育ったのは紀伊半島の海岸線沿いにある企業城下町のような小さな町です。

思い起こせば、育ったところというのは、
ずっと嫌ってきましたが、
ある意味とても面白いところだったのかもしれません。

平安時代に建立され、当時は七堂伽藍の立派なお寺だったのが、
江戸時代以前に本堂だけになり、その本堂も朽ち果て、
地元のお年寄りたちが管理し観音講に使っていたのを、
崩壊しそうで危険だからと調査したら、本尊が重要文化財に指定されるような、
古いお寺ばかりが多い、とても貧しい村だと古文書に書いてあるようなところです。

昭和10年ころまでは、海岸には遠浅の綺麗な砂浜が隣町の境界まで続き、
松林も綺麗で、宮本武蔵の映画のロケ地にもなったことがありました。

その砂浜の一部を埋め立て、昭和10年代には石油精製工場が造られます。
戦時中には何度もの空襲にあい、
一族すべてのものが防空壕で亡くなるということもあったようです。

戦後、その工場は外資系の石油精製工場となり、
ぼくが子供のころには、日本でも有数の利益率を誇る会社だと聞かされたことがあります。
町にはかなりの税収あったからでしょうか、
遠方から泳ぎにくるような立派な市民プールが古くからありました。
ぼくが小学生の低学年のころ、まだ綺麗な砂浜が一部残っていたのを記憶していますが、
その砂浜までも埋め立て、石油備蓄コンビナートができたころに、
その立派な市民プールができたような気がします。

12.3歳ころ、建設関係の仕事をしていた親父の手伝いで、
その工場内にあるアメリカ人役員用の住宅に行ったことがありました。
ホワイトハウスと呼ばれていたように思います。
そこだけが、まるで別世界のような住宅でした。

育った町の山手には古くから暮らす百姓の村と、
中心部から海岸にかけて被差別部落が数箇所と朝鮮部落もあり、
学校では、百姓の子も部落の子も朝鮮の子も、
また石油精製会社に勤めるエリートの子もいました。

その会社の社員は、優秀な高卒か、
東大京大出身者しか採用しないようなところで、
小学生のときに仲良しだった女の子もエリートの子供で、
お爺さんもお父さんも東大出のようでした。

エリート社員の殆どは、近代的な立派な社宅に暮らしていましたが、
工場の近くの劣悪な環境のところには、
トタン屋根のバラックに豚と一緒に暮らす朝鮮の人たちや、
砂浜の近くの松林には、掘っ立て小屋が並んだ被差別部落もありました。
ですから学校には百姓の子もエリートの子も部落や朝鮮の子もいました。

中学くらいのときに、朝鮮部落から成り上がり、
バラックの近くに豪邸を建てた人がいて、
その家に親父の仕事の手伝いで一緒に行ったことがありました。
その豪邸のベランダからは朝鮮部落のバラック屋根が見渡せ、
なんという格差かと思った記憶がりあます。

その豪邸を建てた人ですが、
なかなかの人格者にして情に厚い方で、
クリスマスに貧しい子供たちに自転車をプレゼントしたり、
また会社を幾つか持っていたのですが、
在日コリアン日本人分け隔てなく、
とても面倒見のよい方だと耳にしていました。

後年、ぼくが熊野に暮らすようになり、
その社長が不治の病に侵され、
熊野の湯治場に通ってくることがあり、
何度か宿泊先に招待され話をしたことがありましたが、
数年前にお亡くなりになったようです。
とても惜しい人を亡くしたと心から悔やみました。

部落在日コリアンの中には洒落にならないくらい悪い人間がいることは、
身を持って知ってはいますが、
それと同時にずば抜けた人格者もいるということを、
やはり身を持って知ることができたたということは、
ぼくにとって大きな財産のような気がします。

しかし世の中、そんな奇麗事ばかりで成り立つべくもなく、
旧勢力に対し、同和勢力や在日コリアン勢力が成り上がる過程を見ていると、
表に出ることのない壮絶な抗争というものがあったことも事実です。

人格や能力だけでなく、身内にヤクザや政治に長けた人がいて、
脅しや紳士的交渉を使いこなし、成り上がるのを見聞きしてきました。

旧勢力者のドラ息子を誘拐してきて拳銃を突きつけ、
ロシアンルーレットをして脅したなどという噂もありました。

もの凄く金回りのよい企業城下町というのは、
裸一貫から、ヤーを言って成り上がりやすいところだったのかもしれません。

狭い道路をタンクローリーが頻繁に行き来するメインストリートがあり
ぼくも小さなころタンクローリーに轢かれそうになったことがありますが、
その道に寝転がってタンクローリーを通さないと暴れた人が、
元手がいらず近所のおばちゃんを数人雇ってできる道の清掃作業の請負から始まり、
二十年程でプラント工事用の大型クレーン車を何台も所有する会社まで成り上がるというのも見てきました。

外資系の一流会社というのは、
もしかしたら同和や在日コリアンに対し、
寛大なものがあったのかもしれません。

部落の親族や同級生の親で、
その会社に勤め、
よいポジションまでいった人も結構いたような気がします。

小さなころ、みんなでよく草野球をした記憶がありますが、
部落や在日コリアンの多いチームは運動神経では勝っているのですが、
エリートの子供の多いチームにルールを知らないので負けるという面白いこともありました。
それでも子供たちには、エリートも部落も在日コリアンもありませんでした。
親たちには差別はあったかもしれませんが、
子供同士では、気の合うものたち、
それぞれ仲良くやっていたと思います。

只、今思い起こしてみると、
朝鮮部落から朝鮮学校へ行った子供たちとは、
殆ど交流がなかったように思います。

そのころ、小学生高学年くらいから、
矢追純一のUFOスペシャルを見るようになり、
小学校の校庭での小石拾いの時間に、
葉巻型のUFOを集団で目撃するということがありました。
伸びたり縮んだりして、しばらく浮かんでました。

小学生くらいまでは、みんな仲良しだったのが、
中学くらいになると、エリートの子供たちは、
親がこちらに残っても、本人は東京へ行くというか、
戻るようなかたちが多かったかもしれません。

地元出身の同級生の中にも、親が教育熱心だったり、
経済的に余裕のある家庭では、
子供を寮のある他府県の学校へいかせたりすることもありました。

環境が悪かったからでしょうか。
県内でも悪い中学校ということで有名だったので、
同級生のなかに不良グループや番長グループというのが構成されてゆきました。

強烈に悪いやつというのは、、
部落在日コリアンの子が多かったかもしれません。

ぼくはというと、音楽とボクシングに夢中で、
番長グループとかにまったく興味もなく、
どちらかというと、浮いていたというか、
遠巻きにしてちょっかいをだされて、
苛められていた感があります。

中学くらいから、大の学校嫌いでしたので、
学年では一番欠席日数が多かったと思います。
なにかにつけ休んだり、学校へ行くふりをして、
海や山で過ごすこともありました。

苛めっ子というのは、小山の大将クラスの、
スケールの小さいものたちですから、
こちらが羽目を外して新聞だたになるような事件を起こしてからは、
もうちょっかいをだしてくることもなくなりました。

そんな状態でしたので、
まったく勉強もせず、地元の高校へ進むのに、
恥ずかしながら、石油精製工場に勤める親戚の顔で、
東大出と京大出の家庭教師を付けてもらい勉強をされられたことがありました。
そんなお金があるのなら、
良いギターでも買ってくれればとも思いましたが、
どちらの先生も面白い人だったので、
退屈はしませんでした。

そういえば、中学のときに、
二年間くらい自分の欲しいものを買うために、
新聞配達のアルバイトをしていました。
家計を助けるのでしたら立派かもしれませんが、
楽器やボクシングのグローブを買うためでした。
怠け者のようで、勤勉なところもある、
わけのわからないところがありました。

朝早く、小さな駅に新聞を取りにゆくのですが、
朝鮮学校へ通う女の子が、
民族衣装を着て始発の電車を待っているのをよく見かけました。

子供には偏見なんてありません。
フィーリングが合うか合わないかです。
密かに胸をトキめかせるような娘もいました。

そんな環境でしたので、
まわりの思想的な影響からいえば、
どちらかというと左側に寄ったもので、
反天皇的なものだったのかもしれません。

また爺さんも親父も、昭和天皇に対しては、
決してよくは言ってませんでした。

またぼくが上京してからも、友人知人になる人の多くは、
左寄りの人が多く、天皇に対してよく言う人はあまりいませんでした。
なんかいろんな集会に連れていかれたような気がします。

爺さんは、所謂被差別部落出身ということになりますが、
この被差別部落という定義は、
その経緯により複雑にして難しい場合もあります。

爺さんの生まれたところは、幕末明治ころに四国の方から流れてきたらしいといわれていますが、
同じ町にやはり四国の方から流れてきた人たちの部落があり、
戦前戦後には同じように貧しく差別をされていたみたいです。

しかし、その部落は非常に結束力が強く、
また教育熱心なところでもあり、
いち早く脱賎民化したといいますか、
昭和四十年代ころには、地元の政治経済を牛耳るようにまでなり、
それからは差別というものがなくなっています。

爺さんが生まれた部落ですが、やはり同じように戦後になり、
他所の一般の村と比較しても経済的に見劣りすることもなくなり、
差別をバネに努力したといえばそうなのでしょうが、
会社を興したり医者になった人がけっこうでたりしました。
表立った差別というものは殆どないように感じていますが、
目に見えないところでは今でもあるような気がします。

二つの似たような地区の決定的な違いは、
爺さんの生まれた地区の有力者が、
部落解放同盟と関係を持ち支部長に納まったことにあります。

というより、
解放同盟をひっぱってきた人物が有力者になったというほうが正しいのかもしれません。

同和対策事業特別措置法により、
裏山は削られ、地区の様子が一変してしまいます。
元から暮らしていた人たちは、
経済力のある人が多かったことから、
地区内に立派な家を建て、改良住宅には、
親類縁者を住まわすということが起こりました。

※以前運営していたサイトを通じて知り合った大学教授などと、
 勉強会のようなことに何度となく参加しましたが、
 被差別部落の指定を断り、
 いまだに劣悪な環境での生活を余儀なくされている地区も残っているみたいですから、
 一概に同和対策事業特別措置法の指定すべてが悪ともいえないということもあります。
 それにより著しく生活が改善された地区もあることはあると思います。
 しかし、裏の部分まで見聞きしてしまったものとして、
 あまりにも一部の人たちを超え太らせ過ぎました。
 

家庭教師がよかったのか、
なんとか地元の県立高校へ進むことができたのですが、
本心では高校へは行きたくありませんでした。

高校を中退するときに聞いた話では、
県内どこの高校へでも合格できる点数を取ってたみたいですが、
例え進学校へ入学していたとしても、
もっと早く中退していたに違いありません。

中学から高校にかけて、
なんか場違いなところにいるなという思いが強くありました。

そんな学生でしたので、
学校へは通わない、
タバコとパチンコで何度も停学になるという状態でした。

その停学になるということで、
決定的に頭にくることがありました。

あからさまな差別を受けたのです。

それは部落差別とかではなく、
通っていた高校はスポーツが強く、
甲子園常連校で、春夏連続優勝もしていて、
他のスポーツも全国レベルのものがいくつかありました。

遊び仲間には、そういう部員が何人かいました。
特に親友として仲が良かったのは、
無理やりやらされながらも、
相撲で全国三位という実力のあるやつでした。

一緒にタバコやパチンコを見つかっても、
野球部や相撲部はお咎めなし、
すべてぼくだけが悪いということになっていました。

それに、そういう部員の不祥事をもみ消すということも、
何度も見てきました。

いずれにせよ、学校は辞める気でいましたが、
このままおめおめと辞めるのも納得がいきませんでしたから、
校長の首を飛ばしてから辞めてやろうと、
いろいろと算段し、刺し違えて、校長の首を飛ばしてから、
ぼくは退学になりました。

というか、学校側があまりの自分たちの非が怖くて、
自主退学ということでと頭を下げられました。
それともうひとつ、そんなことを表に出したら、
この町で家族は生きていけないとも脅されました。

ですから、特に甲子園に出場するような強豪高というのは、
例外はあるかとは思いますが、
次元の低い学校ですよと、言っているようなものだと思っています。

山形の甲子園出場校の部員の半数以上が、
大阪出身だとかで、
なにか履き違えた状態だということに気づかないのかと、
あきれてものも言えません。
選手が悪いのではなく、大人たち、
指導者がまったくなっていないのでしょう。

その高校からは、プロ野球選手や大リーグ選手などもでましたが、
それはそれでよいことだと思いますし、
誇らしいものもあると思います。

そういう選手には、大いに拍手を送りたい思いがします。

しかし、ぼくは地元でこの話をするたびに、
いつ刺されるかとも思ったりするのですが、
結局、甲子園春夏連覇し、
驕った時期の一番の有名人は誰かというと、
あの毒入りカレー事件により全国で有名になった犯人ではないかと思うのです。
よく彼女のことをネット上では在日コリアンや部落といういわれかたをしていますが、
ぼくが知りうる限りでは違います。
あの地域のごく普通の家庭だったように思います。

彼女の人間性をみていると、見栄っ張りで驕ったような、
当時の校風の申し子ではないかと思ったりしています。

うちの親父も同じ高校の出身者でしたから、
甲子園で何度も優勝したことを、
他府県の人に自慢していましたが、
そんなもの他府県の人はなにも思いません。
ふ〜んで終わりです。

中国がいくら金メダルを取ったからといって、
他国の人が立派な国だと思わないのと同じことです。

後年、ぼくが高校を退学するに至った経緯で、
一番の悪者は校長ではなく、
教頭をしていた人間だとわかり、
校長には悪いことをしたと悔やんだことがあります。

その教頭は、今はわかりませんが、
すこし前まで市の教育委員長についていたようです。

そういう人間が教育委員長なのですから、
大分での教育委員会による教員採用試験の不正問題など、
おそらく全国あちらこちで行われてきたものだと思います。

解放同盟の支部長で、いまは地元市会議員である人と、
うちの親父は従兄弟の関係にあり、
一時うちの親父も自民党系の同和団体の支部長をしていたことがあり、
地元の政治や役所に対し、影響力を持っていたことがありました。
そのときに、その教育委員長に、
うちの息子が高校のときに世話になったなと言葉を発したら、
青い顔してブルブルと震えていたと聞かされました。
うちの親父もろくなものではありません。

うちの親父はいまは大人しくしていますが、
解放同盟の支部長にして議員は、
いまでも実力者のようです。
そして同和地区の人たちだけでなく、
一般の地区の人たちからも頼りにされているみたいです。
そのあたりに解放同盟の底力を感じたりします。

そのおっさんとはあまり仲がよくないのですが、
世話好きなところと、親分肌のところは少し尊敬しています。

いろんな相談にものっているようですが、
それぞれの両親が百姓で、結婚を反対されているカップルが相談にきて、
親たちを呼んで説得をしたことがあったそうです。

最初はうちは娘だけだから養子をどうのこうのという話だったそうですが、
そのうちに家の格が違うだのどうのと親たちが言い出したときに、
そのおっさんが、おまえらどっちこちいうても鈍百姓やないかと一喝したそうです。
そして子の幸せ考えんかいといわれ、黙ってしまったそうです。
その親たちは、そのおっさんのことを被差別部落の人間で、
解放同盟の支部長ということまで知らなかったみたいです。
まあ百姓というのは、家の格が違うだのなんだのと、
だいぶうといなと、うちの親父に言ったそうです。
あのおっさんらしい言葉かもしれません。

UFOと天皇ということで書いてきたのですが、
どうも履歴書のようなことになってしまい、
いまさらどう書き直したらよいものやらとも思いますので、
このまま履歴書のような文章を続けさせていただきます。

祖母の話になりますが、
祖母は宮崎の山奥から女工で出てきたところを、
爺さんに見初められ結婚するに至ったようです。

当時、親からエタと結婚は許さないと反対されたようですが、
祖母は殆ど学校へは行ってなく、
戸籍上の年齢と実年齢にはかなり開きがあるようです。
今も健在で本人は90歳だと言っていますが、
実の妹がいうのに、93歳はいっているらしいです。
祖母の父親、ぼくからしたら曽祖父ですが、
ぼくが幼少のころに一緒に写した写真も残っているのですが、
樽の竹の部分を造っていたとのことですから、
どうもサンカ系ではないかと思っています。
とても人として綺麗な爺さんだったようです。

祖母ですが、いまでも頭のボケはいっさいなく、
というより天然ボケのままだからかもしれませんが、
記憶力は恐ろしく良いです。

母親は鳥取生まれで、ルーツは島根のようです。
幼少のころ、家に蔵がたくさんあり、
蔵の鍵を玩具にして遊んだ記憶があるとはいうものの、
戦前には没落してしまったようですから、
誰も信じていませんでした。
親父とは神戸で知り合ったようです。

本人の話では、
600年以上続いた旧家だと言い張っていましたが、
誰も信じるものはいませんでした。
これといって証拠となるものがあるわけでもなく、
先祖がどうしたところで母親は母親なのです。

またアメリカにたくさんの親戚がいて、
移民としてではなく、戦前に駆け落ちとして、
親族が渡ったのが始まりという話も聞いていました。

戦後は、GHQとしてやってきた親戚が、
とても面倒を見てくれて、
生活に困ることはなかったという話もしていました。
しかし、誰も信じることもなく、
リアリティのない話だと思っていました。

しかし、ぼくが上京したころに、
母親を訪ねてアメリカの親戚が来て、
ルーツのわかる資料や、
アメリカでの一族の話や写真を置いていったそうです。

日系人でペンタゴンに始めて勤めた人や、
丁度そのころ、フラッシュダンスという映画がありましたが、
そのなかで歌っている歌手のひとりが母親の従兄弟だということを知りました。

その従兄弟の結婚相手は、フィル・ラモーンという有名な音楽プロジューサーで、
ビリー・ジョエルを育てたり、ジュリアン・レノンや、
カレン・カーペンターとも関係した人のようです。

ニューヨークにある自宅の住所と電話番号を貰っているのですが、
いまだにぼくの中ではリアリティがありません。

親戚に有名人がいるから、
ぼくが偉いということもないし、
先祖が大名だから偉いということもないし、
ましては先祖が賎民だからといって恥じることも、
差別されるゆわれもないのです。
それぞれの先祖を、密かに誇り、
感謝すればよいだけのことなのです。

問題は、その人自身であり、
生き方であり、人間性なのです。

そういうあたりまえのものの道理がわからない愚か者が、
いまだに多いのは悲しい限りであります。

さて、高校を中退してから上京するまで、
数年間は実家の家業を手伝ったりしながら、
元々バイクやクルマが好きで仕方がないたちでしたから、
気の合う仲間たちと走り回ったりしました。

一番燃えたのは、自動車での信号グランプリでした。
それでも、所謂暴走族とは違い、
走り屋という感じだったと思います。

そのうちに地元の札付きの不良で、
高域暴力団のイケイケの組の準構成員になっていた男に誘われ、
一緒に旗を持って走るようになったりしました。

自分では普通だと思っていましたが、
今から思うと、荒んだ生活だったかもしれません。
不良の溜まり場での光景は今でもはっきりと覚えています。

安物のシャブ打って、朝までチンチロリンをしているやつらや、
花札やカブに乗じている連中、
被害妄想になって喧嘩しているやつら、
ものすごい程度の低い妄想や幻覚を見ているものたち、
そして、兄貴ぶんがアジトにしているところに連れていかれると、
今度は指のない組員たちがシャブのパケをプラスチックの物差しを使い、
ライターで炙って作っていました。

にいちゃんシャブやろうかと何度も言われたりしたものです。
いろんな悪いことはしてきたかもしれませんが、
シャブと女遊びだけは、
絶対に受け付けないものがありました。

しかし、そういった連中と接点があったのですから、
かなりマトモでない状態だったのかもしれません。

ヤクザの兄貴分がぼくの姓を聞いて、
解放同盟の支部長と親戚になるのかと聞くので、
そうだと答えたら、
もう二度とここへくるなと言われました。
そのおっさんから怒られるとでも思ったのかもしれません。

さて、自分でも何を書いているのかわからなくなってきましたが、
そういう愚かな自分が大きく変わるきっかけになったことがありました。

夜中まで遊びまわり、昼過ぎまで寝て、
ふてくされて足の指でテレビのスイッチを入れたときです。

画面には皇太子の成人式のような儀式が映し出されていました。
なにか烏帽子のようなものを被っていて、
あごひもをはさみで切った瞬間、
皇太子の顔がキリリと引き締まり、
それと同時にぼくのからだに電気が走ったようになり、
臣下の礼のごとく身をただし、
このお方に身命をかけてでもお使えしなければという思いが沸きあがってきました。

我に返り、いまのはなんだったのだろうかと、
どこかイカれてしまったのだろうかとも思ったりしました。

しかし、それをきっかけにしたかのように変化が訪れます。
まず、パチンコやギャンブルにはいっさい興味がなくなり、
からだが受け付けなくなってきました。
悪い連中とも疎遠になり、
本をいろいろと読み出すようになってきます。

もともと自然が大好きで、
ブラザーサン・シスタームーンに大きな影響を受け、
聖書を読むようなところがありましたし、
未来少年コナンを見て、
胸を熱く振るわせるようなところがありましたから、
本来の自分に戻ろうとしていたのかもしれません。

そして、上京することを考え始めました。

もし、そのときにニューヨークに親戚がいることを知っていれば、
当時、アメリカに憧れていましたから、
ニューヨークへ旅立っていたかもしれません。

UFOと天皇ということで書き始めたのですが、
そこへいくまでに疲れてしまいましたので、
続きはまた今度書くことにいたします。

つづきでは、UFOとの遭遇、夢のなかで受けたメッセージ、
昭和天皇皇后両陛下との祝い事の夢の話などを書きたいと思います。
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