否定と肯定の背後にあるもの、そして『アンチ』の限界
ネット時代になって、
さまざまな人々の『生の声』を目にする機会が増えた。
言論の自由があり、
多種多様な意見を幅広く耳にできるというのは、とても素晴らしいことだ。
だが、あるとき、ふとした違和感を覚えた。
ネット上の文章を読んでいると、
『最初から結論ありき』の人が、やけに多いのだ。
政治経済を論じたがる人々などは、
そうした傾向が特に顕著かもしれない。
たとえば、こんな感じ。
「小泉が悪い!」
「安倍が悪い!」
「福田が悪い!」
じゃあ、誰が総理にふさわしいとお考えですか?
「…………」
答えはなしですか(^^;)
中には、最初から『アンチ誰それ』を名乗っているような人々もいる。
たとえば、
アンチ小泉だとか、アンチ安倍だとか、アンチ福田だとか。
政治家なんてものは、ただの役者というか、
通り過ぎてゆくだけのエキストラみたいなものなのに、
そこに固執してしまっては、大事なことを見落としてしまわないか?
わたしなどは、基本的に『罪を憎んで人を憎まず』を実践しているので、
政治家のパーソナリティなどには、てんで興味がない ヽ(´ー`)ノ
たとえ、どのような人物が要職に就こうとも、
その人にしかできない仕事を推し進めてさえくれれば、
それで充分だと考えている。
また、その人にしかできない仕事を効率よく進めてもらうためには、
いたずらに要人の足を引っ張るようなこともしたくない。
どうせやるのなら、
「その人にしかできない仕事」を、きちんとやってもらった上で、
用済みになったら、スキャンダルをリークして失脚させるなりして、
すみやかに退場いただく……という手段を選ぶ(笑ぃ)
(これがいちばん、みんなのためになるからね)
だから、アンチ誰それというようなスタンスを表明している人々を見ていると、
「効率が悪いことをしてるなあ」と、彼らの限界を感じてしまう。
効率的な『力の使い方』というのがある。
それは、ひとことで言うなら、
『宇宙の法則に逆らわない』ということだ。
何かを否定するとき、わたしたちの心の中には、
ネガティヴなエネルギーが広がっていく。
これが深層心理に反響して、
わたしたちの行動や、現実社会に、よくないかたちで繁栄されてくる。
ネガティヴなエネルギーにとらわれないためには、
肯定できるところを探すことからはじめるより他ない。
マザー・テレサも言っていた。
「戦争反対の集会には出席しません。
平和のための集会を開くのでしたら、私を招待してください」と。
『反対』するのは、そこに『恐れ』があるからだ。
恐怖にとらわれているかぎり、
正しい力の使い方は見えてこない。
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