オリンピックの開会式を眺めながら
北京オリンピック開会式の中継を、横目で眺めながら、
この原稿をしたためている。
ほんの十年ほど前まで、
日本人にとって、オリンピックといえば、
国家と国家が威信をかけて闘う『代理戦争』の場だった。
そうした雰囲気というのが、
今大会のわが国の選手団からは、まったくといっていいほど感じられない。
日本人選手たちは、
自分のため、チームのため、身近な大切な人々のために、
そして応援してくれる無数の人々のために、このオリンピックに参加している。
『日本代表』という肩書きは、
応援してくれる無数の人々との繋がりの、代表的なものに過ぎないのだろう。
このような変化は、
おそらく、そう悪いことではないのだと思う。
途上国や貧困国の選手団からは、
いまでも国家の威信を背負って闘うという意志が強く感じられる。
貧困を、即座に解決するのは不可能だ。
だから途上国や貧困国では、
『仮想敵』や『なぐさめ』が求められ、
その矛先が他国の代表選手や自国の選手団にまで向かう。
ここ数年のオリンピックを見ていると、日本は豊かになり、
『外敵』を必要としないほど、充分に満たされているのだと実感させられる。
《必要最低限の豊かさ》さえあれば、もはや『外敵』などいらないところまで、
人類の意識は進んできているのではないだろうか。
それでも《敵》がほしいというような人は、
これから先の世の中では、逆に社会の《敵》だと見なされるであろう(笑ぃ)
開会式を眺めていて、中国の人民の統率力というのを、
あらためて見せつけられたような気がした。
だが、マスゲームに代表されるような『統率』というのは、
高度成長期や戦時下だからこそ、可能なのだとも実感させられた。
目標がなくなれば、ひとびとが一丸となるのは不可能だ。
中国が近代化を終えたとき、
あのような『統率』が可能かといえば、
それはあり得ないと断言できる。
何かを手に入れれば、何かを失う。
中国は、これから先、何を手に入れ、何を失うのだろうか。
そして、わたしたち日本人は、
これまで何を手に入れ、何を失ってきたのだろうか?
わたしやあなたは、
これから先、何を求め、何を手放していくつもりだろうか?
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